都市名
ブハラはサンスクリット語のヴィハラという言葉で修道院という意味。イスラームの世界で「聖なるブハラ」ブハライ・シャリフと呼ばれている。2500年以上も歴史があり、シルク・ロードの大切な十字路でもあった。
ポイー・カラーン広場
ブハラ旧市街の正式的な中心地でもあったモスクと 2 つのメドレセの間にある広場。広場の真ん中にカラーン・ミナレットが建ち、ミル・アラブ・メドレセとカラーン・モスクの美しい玄関も広場に向いて いる。
カラーン・ミナレット ( カロン・ミナール)
カラーンとは「大きい」という意味。その名のとおり高さは46.5メートル、ブハラの旧市街に一番高く、町のどこからでも見えるブハラのシンボルだ。
1127年にカラハーン朝のアルスラン・ハーン時代に建てられたものです。塔の基底部の直径は9.3メートル土台部分が地下に10メートルほど埋まっている。ミナレットのすぐそばにカラーン・モスクがあり、モスクの屋根からミナレットまで橋で行ける。中に入ったららせん状の階段で上まで上れるが少し暗くて足の力が要ります。ミナレットは、金曜日とお祭りに信者にお祈りに呼びかけるという役割のほかに、見張りの塔でもあり旅人の目印でもあった。18,19世紀には死刑場となり、袋の詰めた受刑者をミナレットの屋根から投げ落としたので、「市の塔」とも呼ばれるようになった。最後の死刑は1884年に行われた。
カラーン・モスク
ブハラの最大の礼拝所。現在の建築物は1514年、シャイバニ朝の時代に建てられた金曜日の美しいモスク。金曜日とラマダンの時期には優れた数の信者が集まり礼拝をやっていた。中庭が大変広くて人が入っていても静かだ。1220年にブハラの市民がチンギス・ハーンの攻撃から逃げこのモスクで閉じこもって祈っていた。当時のモスクは木造だった。208本の柱が288のドームを支えている。柱の間に歩くときまるでアラビアン・ナイトの世界と感じる。
ウルグベク・メドレセ
ティムールの孫のウルグベクが、真の教育施設にしたいと願って1418年に建てた、現存する中央アジアで最古の神学校だ。きれいに残る植物や星、幾何学文様の装飾を見ると、当時の彩粕タイルによる豪華な装飾が目に浮かぶ。ウルグベク時代の建築はサマルカンドに多く残っているが、ブハラではここだけ。メドレセの扉にはウルグベクの格言「向学心こそ、ムスリムになくてはならぬもの」が彫られている。また、ここには他の言葉「信仰している人かには、いつでも神の祝福の扉が開かれている」とも彫られている。
アブドウール・アジス・ハーン・メドレセ
ウルグベク・メドレセが健てられてから200年以上もたってから建てられた神学校だけど未完成だったのでとても古く見えている。中庭を囲んで2階にアーケード状の部屋が造られ、夏の礼拝所、冬の礼拝室と創立者の霊廟がある。装飾には中国やペルシヤからの影響が見られる。この200年間にイスラーム建築がかなり変化したことが、比べてみるとわかる。色彩も豊かになった。
アルク城
アルクと言うのは「お城」という意味。この城の辺りが古代プハラ発祥の地で、2000年以上前に遡るといわれるが、最初の城砦がいつ築かれたのかは定かではない。7世紀に女王フタ・ハウタンがこの城砦でアラブと戦い、モンゴル来襲の際には立てこもった多くの町民がチンギス・ハーンの軍隊に虐殺され、城も破壊されたが、後に建て直された。その後も再三外敵に破壊されては建て直すことを繰り返した。今残っている城は18世紀のもので、1920年にソビエト赤軍に飛行機から爆撃されて滅亡するまで、歴代ブハラハーンの居城だった。城門はレギスタン広場に面しており、坂を少し上がったところにある。門を入ると暗い通路が始まり、両側には囚人の地下室が残っている。城内には金曜・モスク、玉座の間、ハーンの居室などがある。博物館は3つに分かれて1階には古代歴史、2階には中世期、3階には貨幣などが展示されています。
ブハラのレギスタン
レギスタン広場はお城の前に昔からある町の中心広場。大きな行事が行なわれていた。ここでハーンに反抗する囚人を鎖に繋ぎ、見せ物にしたり、公開処刑場にして見せしめに首を切ったりした。
ズィンダン監獄博物館
ズィンダンというのは「牢獄」という意味。アルク城の裏,東北の方向にある18世紀の監獄跡。人々に恐れられた「虫の穴」などを見ることができる。聖者のお墓も残っていて昔の囚人がそこで祈った。
バラハウズ・モスク
バラハウズというのは「池の前」という意味。1718年にアルク城とレギスタン広場を挟んで建てられた、ハーン専用のユニークなモスク。前面に彫刻されたクルミの柱が20本並んだテラス状の空間があり、軒の正面や天井は赤、緑などカラフルに塗り上げられている。プハラでは他には見られない、アイワンという建築様式だ。モスクの前にハウズと呼ばれる池があり、四方は大きな石の段冷で囲まれ、彫刻された大理石の給水口がある。また、祈りを呼びかけるため16世紀に作られたミナレットもある。
チャシュマ・アイユブ
チャシュマ・アイユブとは「預言者ヨブの泉」の意味。預言者ヨブの泉は旧約聖書にも出てくる。人冷が水不足で苦しんでいたとき、ヨブがここを杖で叩いたら、泉が湧き出たという伝説による。12世紀に泉が出て、14世紀に真ん中のドームが、16世紀に前のドームが、といった具合に次冷に建て増しされていったため、アンバランスな建物になった。四角の平らな屋根にとんがり帽子型の屋根、ドーム型の屋根が2つ、ドームの上にあかり窓のある屋根が付いている。昔、この泉は眼病に効くといわれて大勢の人が遠くからやって来たが、疫病の流行で禁止された。今でも中に泉があり、巡礼者たちがこの水で顔を荒い祈りをする。入口に入ったら昔の皮袋などの飲料水の入れ物が展示されている。
イスマイール・サマニ廟と池
イスラム1初期の建築様式の霊廟。892年から943年にかけて造られた中央アジアに現存する最古のイスラーム建築だ。9世紀の終わりにブハラを占領して都としたサマン朝のイスマイール・サマニが父親のために建てた霊廟だが、後になって彼も、彼の息子も葬られてサマン朝の王族の霊廟となった。モンゴル来襲で町が壊滅されたとき、マゴキ・アッタリ・モスクと同様に、ほとんどが土中に埋まっていて、周りが墓地だったためモンゴルに気づかれなかった。1925年に発掘された。世界中の考古学者や建築家に注目されてとても変わったスタイルの建築物だといわれている。壁の厚さ184センチ、焼きレンガを積み上げ、半球ドーム型の屋根の単純な構造だが、垂直ではなく内転びをもつ外壁など、その意匠には注目すべき要素が多い。壁面を焼きレンガだけで様冷な模様に積み上げているのは見事で、陰影があり、当時の建築家の技術と美意識に驚かされる。壁面は日差しの強弱、角度によって微妙に変わる。丹念に積み上げたレンガの凹凸の明暗が変わるのだ。管理人の女性がアルバイトで巡礼者に占いをやっているので近所のお姉さんたちも集まってくる。2003年に修復工事で池を発見してきれいに修復された。
チャル・ミナル
チャル・ミナルとは、4本のミナレットという意味。他の見どころと少し離れているが、旧市街の迷路のなかにあり、観光客と巡礼者の人気を呼んでいる。1807年にメドレセの門番小屋として建てられたが、メドレセそのものはもう残っていない。ミナレット上部のドームは、4本とも青タイルで美しく装飾されている。チャル・ミナルの伝説によるとインドからの金持ちの商人が4人の娘の事をさびしがっていて4本にきれいなミナレットを造るように頼んだ。娘たちがみんな顔が少し違ったのでミナレットのタイルの装飾も違う。
スィトライ・モヒ・ホサ宮殿
「お月さまとお星さまの宮殿」という美しい名を持った夏の宮殿。ロシアで教育も受けたプハラの最後のハーン、オリム・ハーンの意向で、ヨロッパの建築家と地元の職人が建設に参加し、年に完成した。外観は西洋風、内装は主に東洋風と、東西の様式が混在した宮殿となっている。テラスのある中庭に面して建てられた白い建物がハーンの宮殿で、ここにある噴水のために中央アジア最初の発電機が添え付けられた。宮殿内の応接間や謁見の間は当時最高の建築職人30人が趣向をこらして壁や天井を装飾し、今もとても美しい。内部にはハーンが使用した西洋の調度品や、中国、日本の陶器などが飾られている。広い敷地内には、若い女陸たちを泳がせたプール、300人の女性を住まわせたハーレムなどもある。ハーンは水浴びをする女性たちを近くのアイワンというテラスから眺め、気に入った女性にリンゴを投げてその日の相手を決めたという。ハーレムの建物は、スザニの刺繍の博物館になっている。とてもきれいなスザニがたくさんあるのでぜひご覧ください。
ミル・アラブ・メドレセ
カラーンモスクに面して建ち、巨大なアーチの両脇に2つの青いドームを持っているのがミル・アラプの神学校だ。青と白のモザイクタイルからなる植物文様と文字文様を組み合わせた装飾は、末期ティムール様式の典型的な例だ。中庭を囲んで回廊があり、1階は主に講義を行なう教屋や図書館、食堂などの小部屋、2階が寄宿舎になっている。多くの神学校のうち、ソ連時代に中央アジアで開校を認められていた数少ない神学校だ。教育年限は7年で、試験で選ばれた学習者はアラビア語、コーラン、シャリアト法などを住み込みで勉強している。このメドレセは、1536年にウバイドゥラ・ハーンの資金で建てられた。
リャビ・ハウズ
ハウズとは池のこと。旧市街のひとつの大切な中心地であり、きれいな神学校やハナカやキャラワン・サライなどに囲まれている。広さは46メートルx36メートル、大きな石できちんと造られた池の四隅は、水を汲みやすくように、段々と降りられるようになっている。
リャビ・ハウズの伝説によると、アブドラジズ・ハーンの大臣のナディール・ディヴァン・ベギがここで大きな池を造りたいと思い、十地の持ち主のユダヤ女性に売ってくれるように頼んだ。でも断られてしまった。そこでナディール・ ディヴァンデ・ベギは、彼女の家の下に
運河を通させた。運河の水が家を流し始めたので、彼女は家屋敷を手放さざるを得なかった。それで1620年にここで造られた池は、「力ずくの池」と呼ばれていたという。
マゴキ・アッタリ・モスク
1936年に考古学者に16世紀の建物の土台の中から発見された10世紀モスクの跡。マゴキは、「穴の中」という意味だ。周囲を7メートルぐらい掘り下げ、周りの土をどけて、穴の中にすっぱり掘り出した状態になっている。だからこのモスクには、そのものずばりの名前がつけられている。アラブに支配されるまでここはバザールとゾロアスター寺院もあったといわれている。その後も焼失、破壊されては再建されていたらしいが、この創建は10世紀に遡ることが確認されている。壁面は3層に分かれており、このモスクの辿った歴史を物語っている。下の彫刻されたレンガの層、その上の模様、そしていちばん新しい層に分かれている。破壊されてはその上に建てられたということだ。これらを見ながら、アラブ軍によって壊されたときのこと、チンギス,ハーンに破壊されたときのことなどを想像できたら楽しい。現在内部は絨毯博物館になっている。ブハラとトルコメンとアリメニアのタイプの絨毯が展示されている。
タキ
タキとは大通りの交差点を丸屋根で覆ったバザール。昔は5つもあったが現在まで残っているのは3つだけ。宝石商市場のタキ・ザルガランと帽子商市場のタキ・テルパク・フルシャンと両替屋のタキ・サラフアン。
16進紀当初のタキは専門店的要素が強く、めずらしくて高価な宝石類の売買、いろいろな材質、模様の帽子類の売買、本、外貨や金の売買のために人々が各地から集まって来た。白いターバンの人、長い服を着た人、高い毛皮帽の人など実に多くの民族が集まり、ここならなんでも見つけることができるといわれた。交差点の丸屋根は高く大きく、大きい荷物を背負ったラクダでも通れるように造られている。規模としていちばん大きなタキ・テルパク・フルシャンでは、その周りに商店や職人の仕事場がたくさんあり、それぞれが小さい丸屋根になっている。それに旅人のためのキャラバンサライや風呂場の丸屋根もあるといった具合だ。
チョル・バクル
ブハラ市から約7キロメートル西のスミタン村にある「死者の町」。チョル・バクルとは、「4人のカリフ」の意味。予言者ムハンマドの一族で初代カリフのサイード・アブ・バクルと、その3人の兄弟がここに葬られたという伝承から信仰を集め、有力者は競ってここに白分の墓を造った。16世紀になってアプドゥーラ・ハーンがモスクやメドレセ、巡礼者の宿のハナカなどを建て、以来王族もここに葬られるようになった。アブ・バクルのものといわれる墓は、門を入って右手の通路を途中左折した先にある。
バハウッディン・ナクシュバンディ
ブハラ市から約6キロメートルカソル・アリファン村にある。メッカに次ぐ聖地といわれ、イスラームのスフィの大切な巡礼地。「中央アジアで最も影響力を持つイスラーム神秘主義ナクシュバンディ教団の開祖、14世紀の聖人バハウッディン・ナクシユバンディを肥った廟。敷地内はモスクやハナカ、ハウズ(池)、博物館、巡礼者用の宿や台所などでいつもにぎやか。門から入って奥の左手、モスクに囲まれた中庭にバハウッディンの墓石がある。聖職者が巡礼者たちに向かって祈りの言葉を詠唱している。ここには珍しく女陸用のモスクもある。当時女陸信者はモスクにお参りすることを許されなかったが、各地から家族連れで来た女陸のために建てられたという。ハウズの傍らには「願いをかなえる木」と呼ばれる桑の木が置かれ、子宝を願って布をうろに詰めたり、その下をくぐっている巡礼者の姿もよく見られる。
ブハラの伝説
ハーン・アトラスの模様の言い伝え
ハーン・アトラスとは「王様のシルク」の意味。あるときバザールに出かけたハーンが美人の娘を見つけてお城に連れて行ってしまった。娘の父親はお城に出かけて、娘を返しでくれるよう頼んだ。ハーンは父親が職工であることを知って、「この世にないような美しい布を織ったら娘を返してやる」と答えた。父親は困って川岸を歩いていた。そのとき、川波にタ日がきらきらと映っているのを見た。父親はこの状景を織り込んで、その布をお城に届けた。ハーンはこの布の美しさを誉めると娘を第一夫人にしてその布で作ったワンピースを着せた。それから娘たちは、幸せになわるように王様のシルクで作ったワンピースを着るようになつたという。
男性用の角帽のいわれ
あるときブハラで疫病力沃流行した。そのとき高名なお坊さんがブハラにやって来た。ブハラの王様はお坊さんに相談した。お坊さんは「厚いお茶に唐辛子を入れて飲みなさし」と言った。そこでその通リにすると,病気が治った。王様は喜んで、どんなお礼をしたらいいか尋ねた。するとお防さんは「私は何もしていない。唐辛子のおかげだから、唐辛子に感謝しなさい」と言った。そこでドッピに唐辛子の模様をつけて、毎日感謝するようになったという。
