ヒワ(ヒヴァ)の名所
ヒワは、首都タシケントの西約 750 キロメートル、ウルゲンチ市から南西に 30 キロメートルのアムダリヤ川の下流のオアシスの町で、古代ペルシャ時代からカラクム砂漠への出入口として繁栄した。ヒヴァは四方を砂漠に囲まれている。現在の人口は約6万人。ヒヴァの真ん中に大きな城砦が残り、城内と城外にはっきりと分かれている。城内のことをイチャン・カラと呼び、城外をディシャン・カラと呼ぶ。城内の町に主に世界遺産の建物があるが住宅街も残り、3千人ほど住んでいる。自動車の走行が限られていて基本的は歩道しかありません。
ヒヴアはホレヌム州にある。ホレズムとは「大陽の国」の意味。その名のとおリ、年間300日は雲ひとつ出ないという過酷な土地で、人々は昔からアムダリヤ川の流れに翻弄されていた。流れのルートが変わるたびにその流れに沿って移動したといわれる。伝説によるヒヴァは泉が湧き出た場所にできた。最初その泉の名はヘイワクと呼ばれ、跡で音がヒヴァというようになった。
イスラーム・ホジャ・ミナレットとメドレセ
いちばん高い塔と工芸博物館になった神学校ヒヴァの最後のハーン、イスファンディヤル・ハーン時代の大臣イスラーム・ホジャによって、1910年に建てられたので、ヒヴァでいちばん新しい建物だと 言われている。イスラーム,ホジャは非常に進歩的な大臣で、ロシアへたびたび行き、得た知識をヒヴァの発展に役立てようとしてヨーロッパ形式の学校を開いたり、病院、郵便局なども造り、橋や道を造って近代化した。メドレセの中にはヒヴァの最も大きくて面白い工芸博物館があるのでぜひご覧ください。メドレセはタィルで飾られた正面入口があるが、対称ではない。中庭も大きくなく囲んでいる1階に42の部屋があるだけ。2階があるのは玄関だけだ。広さは昭44メートル×33メートル、中庭は23メートル×20メートル。ミナレットはヒヴァで一番高く44.5メートル、基底部の直径は9.6メートルだが、色タイルの模様の付け方のためか、実際よりも高く見える118段の階段があり、昇ることができる。上に上ったらヒヴァ全体が見え、周りのお家の中庭も丸見え、面白い景色だ。
パフラワン・マフムド廟とモスク
ヒワの真ん中にあり、一番大きくてきれいな青いドームの霊廟。
ヒヴァの大臣であり、ヒヴアの庇護者として尊敬されていた詩人で哲学者のパフラヴワン・マフムド(1247〜1326)の墓を中心に、14世紀から20世紀にできたムハンマド・ラヒム・ハーンやハーンの親族の廟があり、今では合同の廟になっている。入ロの木彫りの扉を入ると小さな中庭に出て、正面にはドームの霊廟、右には低い柱のアイワン、左には少し地味な霊廟が並んでいる。その右側のアイワンが巡礼者のためにモスクになり、小さな井戸から水で顔と手を洗っていく。
中心の霊廟に入って正面の墓右はムハンマド・ラヒム・ハーンのもので、左手の小さな部屋、より豪華な装飾がされた廟がパフラワン・マフムドのものだ。人々は格予の隙問からお札を押し入れ、マフムドの墓石にのせて御利益を願うようだ。
ヒワの結婚式の祝いで集合写真を撮ってから花嫁と花婿がこの霊廟にも訪れ、ヒヴァの死後者にお礼をあげている。地元の人は霊廟から出るとき背中を前に向いて、頭も少し下げる。外国の方はまねをしなくてもよろしいと思いますが、大きい声で霊廟の中で話すのはやめましょう。巡礼者と聖職者の撮影してもほとんど誰もかまいませんのでいい写真を撮るようにチャンスを使いましょう。
ムハンマド・アミン・ハーン・メドレセ
西門を人ってすぐ右手にある2階建ての建築物。ムハンマド・アミン・ハーンが建設を命じ、1852年に完成した。ヒヴァで最も大きな規模の神学校で、最盛期には99人の寄宿学生がいたという。神学校であるばかりでなく、イスラームの最高裁判所の事務局もあった。広さは71.7×60メートル、中庭の広さは38× 38 メートル。中庭を取り巻く2階建ての建物には125の部屋があり、ヒヴァで初めて神学生のために続いた2部屋が与えられた。正面人口や建物の前面は、タイルで装飾されている。1977年からホテルとして利用されている。客室はそれなりですけど世界文化遺産に登録されているので泊まるのはとても面白い。2回の部屋に上がるのは少し難しいがバルコニがあるのでいい景色を見れる。
シェルガジー・ハーン・メドレセ
シェルガジ・ハーンが、ホラサンの遠征から連れ帰った奴隷に建てさせた神学校。ハーンは奴隷に、建て終わったら自由にするという約東をしたのだが、期問(1719〜1726 年)が延び、辛い生活にしびれを切らした奴隷が反乱を起こし、ハーンの頭を切り落として殺し、逃亡したという。殺されたハーンの霊廟がメドレセの入り口にある。広さは50×44メートル、中庭の広さは29×27メートル。
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ジュマ・モスクトミナレット
中央アジアの最も古くて有名な神学校。10世紀に建てられたが、たびたびの修復工事を重ねて、今の形になったのは18世紀の末頃。世界中のモスクの間に形が一番変わったモスクといわれている。一歩中に入ると、神秘的な薄暗がりの中にたくさんの彫刻された柱が並んでいて、その独特な雰囲気に驚く。真夏に涼しく、冬に暖かい。3.15メートル間隔で212本の柱がある。並んでいる柱の彫刻の模様は一本一本違う。ヒヴァのあたりは大木ぜんぜんないのでみんな遠くから運ばれて貴重なものだった。礼拝場のミフラブの右手の大理石にきれいなアラビヤ文字も彫刻されてある。広さ55×46メートル、高さ5メートルで、木の天井、がっしりした壁に囲まれている。天窓から差し込むだけの光が柱を描き出している。最も古い柱は、昔のホレズムの都から運ばれたもの。4本が10、11世紀、25木が17世紀までの柱だ。モスクの前にあるミナレットの高さは33メートルで、中に81段の階段で昇ることができる。
クトルーグ・ムラード・イナック・メドレセ
クトルーグ・ムラード・イナックとは昔のえらい役員の名前。中庭でサルドバという貯水池が大切に保存されている。このメドレセは、1804年から1812年にかけてイスラームの碇に厳しく従って建てられたイスラームの最高学府で、広さは57×44メートル。中庭は31.5×27.8メートル。レンガの組み合わせを生かしたホレズム特有の建築だ。
パルヴァン・ダルヴァザー門(東門)
パルヴァン・ダルヴァザーとは勇士の門の意味。イチャン・カラの東の門で、別名「奴隷の門」。ハーンがタシュ・ハウリ宮殿から来て刑罰を宣告したので「王の門」とも呼ばれた。約3世紀にわたって、ヒヴァは中央アジアでいちばんの奴隷市場がある町として知られていた。東門の近くに奴隷市場があったので、「奴隷の門」と呼ばれていた。門は長い通路の形で両側に小屋が並んで、ここで鎖につながれた奴隷が売買されていたのだ。奴隷たちは、カラクム砂漠を越えてやってきたトルコ人部族や、草原のカザフ族に買われた。ヒヴァのハーンは、奴隷を仕入れるために近隣の住民や旅人を襲わせた。奴隷として一番価値があったのは職人と若い美人だそうだ。腕のうまい職人と美女を外国で探し誘拐していた。18世紀には南下してきたロシア人を捕らえて売り出したので、ロシアは軍隊を派遺してロシア人奴隷の解放を要求した。1873年にロシアに支配されるまで、奴隷の売買は続いた。門の上にイスラーム歴1221年、つまり西暦の1835年の建設であることが書かれた板がある。建物は西から東へと伸び、屋根はドームになっている。
タシュ・ダルヴァザー門(南門)
ヒワの最も高い門。カラクム砂漠へ行く人はこの門から出て行き、砂漠から来る人はこの門をめざしてやって来た。門の左右にがっしりした塔があり、日が没むと見張り番が座った。扉は頑丈に造られて、侵入者を警戒していたことがわかる。タシュとは石の意味。やっと砂漠を越えて町に辿り着いても、よそ者にとってはなかなか開かれない厳しい門だった。
アタ・ダルヴァザー門(西門)
アタ・ダルヴァザーとはお父さんの門の意味。知観光バスなどが発着し、昔からヒヴァの正門になっている。1920年に革命後の混乱で破壊されたが、1975年に修復された。門は2本のミナレットのような塔で造られており、門をくぐる城壁に土産屋やガイドの詰め所がある。門の手前右の城壁前に、ホレズム帝国で生まれた科学者ムハンマド・アル・ホレズミ(783〜850)の像が置かれている。ヒヴァ城内入場料と撮影代金をこちらでお支払いいただけますがパフラワン・マフムド廟とアク・シェイフ・ボボ見張り台は別料金がかかります。
クフナ・アルク(キューニャ・アルク)
クフナ・アルクというのは古い時代の宮殿。17世紀に建てられた宮殿で、タシュ・ハウリ宮殿(新官殿)ができてから区別するために古いと呼ばれるようになった。要塞で囲まれており、この中にハーンたちによって建てられた執務のための公邸、くつろぎの問、夏と冬のモスク、ハーレムがあり、兵器庫、火薬工場、造幣所もあった。この造幣所では絹のお札が造られたときもあって現在展示されている。1838年にアラクリ・ハーンの命令で建てられた夏のモスクは造幣所のある中庭にあり、青、緑、白の七宝タイルの細かい模様で飾られ、6つの柱で支えられている。
クリヌッシュ・ハナとはハーンの引見場の意味。クリヌッシュ・ハナは最初17世紀に建てられたがイランの軍隊に破壊され、今のは19世紀の初めに建てられたものである。2本の高い柱のあるテラスで、壁面は七宝のタイルで覆われ、天井は赤、黄、緑、黒などきれいな模様で装飾さられた玉座の間になっている。中庭にはユルタを建てるまるい土台が残っている。今あるハーレムは19世紀に建て直されたもので、宮殿の北にあるが観光できない状態になっている。クフナ・アルク全体の広さは139×93メートル。
アク・シェイフ・ボボ
クフナ・アルクの中にある見張り台。クリヌッシュ・ハナとハーレムの間の通路から階段で上れる。ヒヴァ全体の美しい景色が見え撮影するのに最適。入場料は別料金がかかる。
カルタ・ミナール
カル夕・ミナルとは短い塔の意味。西門を入ってすぐ見える、青の彩紬タイル模様で覆われた美しい未完成のミナレットが未完成には見えなく;チェスのルークの形に似ている。1852年に着工。未完成であったために様々な伝説が残っている。ムハンマド・アミン・ハーンが109メートルの高いミナレットを建てたあて、頂上から400キロメートルも離れたブハラの町を見張ろうと考えていたがあまりにも高くてヒヴァ城内のハーレムの中庭も丸見えになってしまって建築工事を途中でやめた。だが実際は、アミン・ハーンが1855年にペルシャとの戦いで死んだために中断された。カルタ・ミナールの基礎部の直径は14.4メートルあるので、90メートルぐらいの高さになっただろうと思われる。26メートルで中断されたままである
タシュ・ハウリ宮殿
タシュ・ハウリとは石の庭の意味。1830年から1838年に、東門の近くに、アラクリ・ハーンによってクフナ・アルクに匹敵するものとして建てられた宮殿で、ヒヴァの中でも最も豪華なタイルや柱で飾っている。公務を行なう謁見や儀式の場、宴会やお客を接待する場とハーレムに分かれている。ハーレムのほうが先にできたという記録もある。儀式が行なわれたアイヴァンと呼ばれる高い柱のテラスの天井は、木枠とカラフルな幾何学模様を巧みに組み合わせて豪華さを強調している。2階建ての部屋がハーレムで、大小163もの部屋があるそうだ。南側の比較的大きな部屋が、ハーンの執務室と4人の正妻のもの。遊牧民族のお客さんを快適にもてなすようにハーンは、中庭でユルタという丸テントを建てた。ハーレムと公務部の入り口が違うので両方とも入りましょう。
キャラバン・サライ<
キャラバン・サライは昔の宿で、中央アジアの最大な宿でもあったと思われる。1832〜1833年に造られた。広さは69I59メートルで、現在ヒヴァのバザールとつながり大切な市場になっている。カメラを用意して、キャラワン・サライの人たちを撮りましょう。キャラバン・サライの隣にアラクリ・ハーンのメドレセもあり、建築スタイルの少し変わった建物で玄関の壁が傾いている。
ヌルッラ・ボイ宮殿
金持ちの商人ヌルッラ・ボイの敷地に建てられた宮殿だから商人の名前が残っている。ディシャン・カラにあり1912年に建てられた豪華な宮殿。お見事なシャンデリアなどで飾られた7部屋すべてが、見事な装飾で埋め尽くされている。広さは198I143メートル。
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