トルクメニスタンの名所




トルクメニスタンの国と主要都市情報
 トルクメニスタン一般事情
 アシガバード
 マーリ
 メルウ
 キューニャウルゲンチ



トルクメニスタン一般事情

・正式国名 トルクメニスタン
・元首 サパルムラト・ニヤゾーフ大統領
・面積 48万8100平方キロ(日本の役1,3倍)
・人口 485万800人(2001年推定)
・首都 アシハバッド(人口45万人)
・民族構成 トルクメン人85%、ウズベク人5 %、口シア人4%など
・宗教 トルクメン人の多くがスンに派のムスリム。ほかにキリスト教の口シア正教など
・言語 国家語はトルクメン語。公用語はロシア語。
・国土 トルクメニスタンはアハル、バルカン、ダシュホヴズ、レパル、マーリの5つの州からなる。南北をコペット・ダク山脈とアムダリヤ川に挟まれ、西は力スピ海に接する。国土のほぼ中央、全体の70%以上を乾燥した力ラクム砂漠が覆っており、人口は国の内縁と河川に沿った部分に集中している。天然資源も豊富で、天然ガスは旧ソ連では口シアに次いで産出量が多い。また世界中から引き合いのある名馬アハル・テク種を産する。国を東西に走るカラクム運河(1100km )は世界最長の運 1可である。
・時差 GMT + 5で、日本との時差は−4時間。つまり日本が正午12:00のとき、朝8:00 。
・気候 トゥルクメニスタンは砂漠性の気候の為ほとんど雨が降りませんが気候の変化が激しい。
・通貨 1000\=46755マナット、1$=5199マナット(2005年9月21日レート)
・電圧プラグ 220V 、50Hz, Cタイプ。
・郵便  ー般の航空便郵便は、アルマトウから日本まで2週間ほどかかることもある。
・ビザ 必要
・祝祭日 1月1日−新年、2月19日−国旗の日、3月8日−女性の日、3月21日−ナウルーズ、5月9日−戦勝記念日、5月18日−再生と連帯の日、5月25日−絨毯の日、10月27日−独立記念日


アシガバード
トウルクメニスタンの首都アシガバードは、北に広がるカラクム砂漠(「黒い砂」の意)と、南に迫るコペット・ダグ山脈(「たくさんの山」の意味)との接点に築かれた町。中央アジアの首都としては最南端に位置し、夏の平均気温が35度という厳しい環境のなかにある。
町の歴史は、1881年にトゥルクメン族征服途上の帝政ロシア軍が小さな村に基地を築いたことに始まる。当時ペルシャに勢力を伸ばしていた英国に対抗するため、ロシアはこの地を重視し、本格的な町造りが行なわれた。4年後にはトランス・カスピ鉄道がカスピ海から達し、アシュガバットはこの地域の中心都市として発展していった。しかし背後にそびえるコペット・ダグ山脈の造山運動の影響で、町はたびたび大きな地震に見舞われている。特に1948年10月6日早朝の大地震で町は壊滅的な被害を受け、市民の11万人以 が犠牲となった。現在の整然と区画された町並みは、この地震の後にソ連式の計画に沿って再建されたものだ。ところでアシュガバットとは、トウルクメン語で「愛の町」という意味。

アシガバードの主な見どころ
絨毯博物館
「ブハラ絨毯」の名で世界に知られる暗褐色の絨毯は、実はすべてトウルクメニスタンからブハラに運ばれて売られたもの。この新しい博物館には、そんな魅力的な絨毯が10万枚近く保管されている。
1 階には絨毯のほか、絨毯を材料にした遊牧民の生活用品や絨毯作りの道具(人形による作業の再現もある)、自然の染料などが展示されている。2階の見ものは、世界最大の手織りの絨毯(18m ×10,5m)。モスクワのボリショィ劇場の背景幕用に作られたが、重すぎて使えなかったという口くつきのものだ。3階にはやはり占い絨毯や、遊牧民のユルタが展示されている。
絨毯の文様にはそれぞれの部族に特徴的なパターンがあり(国旗にも代表的な5部族の文様が印されている)、博物館の分類もそれに準じて行なわれている。
絨毯工場
トウルクメニスタンの誇りともいえる絨毯は、今もせっせと手織りで作られている。市内中心部にあるこの工場では、数十名の女子工員が伝統的な手法で絨毯を織っている姿を見ることができる。ここで作られる絨毯は90%が輸出用で、主にョーロッパへ送られる。何年使おうと−切洗わないのがならわしで、丈夫で色落ちもしない理由は、先染めした毛をペースとなる縦横の糸に2回ずつからげて締めること。ただし絨毯工場は、個人でふらりと訪れても中に入ることはできない。運よく交渉がまとまれば、数ドルの「人場料」で見学はできる。

トウルクメニスタン造形美術館
マグトウムグリの像が建つ公園の一画にある美術館。外観は劇場のような形をしている。奥行きはかなり広く、西洋の近代絵画からトゥルクメン画家の民族的な作品、アバンギャルド風のイラストまで、多彩な作品が収められている。

競馬場
世界的に有名なトゥルクメンの名馬、アハル・テケ種の復興のため、ニャゾフ大統領の肝煎りで競馬が復活された。ここには日本のような女性客の姿は見られない。競馬場は、まったくの男の 世界。
馬券は売られていないが、観客同士 の賭けは公然と行なわれている。特に予供たちがお札をにぎりしめ、大声を発してレースに熱中している様子は、異様に映つる。競馬は、真夏と真冬を除いて、毎週日曜日の正午から開催される。

フリーマーケット
力ラクム運河を越えた市街の北の外れ、荒涼とした砂漠との接点に設置された中央アジアでも有数の規模を誇るバザール。自動車の部品から絨毯、羊やラクダまで、売られているものも様々。強い日差しのなか、カラフルな品々とカラフルな衣装をまとった人々がひしめき合い、「色の洪水」さながらの光景が目の前に広がる。バザールは大雑把に囲まれたコンクリートの塀の中にあり、食品や衣類など、商品によって売場が分けられている。絨毯や民芸品の売場はいちばん北側にあり、手の込んだ、すばらしい品々に出会える。ただしここで手に入るものは、国外持ち出しに手続きが必要なもの(特に絨毯と銀製品)も多いので、ガイドや添乗員によく確認すること。バザールは毎週日曜日の午前中がメインとなるが、木曜日と土曜日にもたいてい開かれている。

べルゼンギ・ホテル群
アシュガバット郊外の南の外れ、車もほとんど通らない広い道路の片側に、奇妙な概観の高級ホテルが延々と並ぶ地域がある。不思議な光景だ。それ以上に建設が進められている様子も見えない。一見の価値あり。
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ニサ
ニサは、アシガバードの西約15km、コペット・ダグ山のふもとにあるパルティア帝国初期の首都の遺跡。ニサは王宮のあった内城とそれを取り囲む商業地区から成っていて、それぞれ旧ニサ、新ニサと呼ばれている。発掘調査の結果、ギリシャの影響を物語る品々が多数出土し、王宮の構造もかなり明らかになっている。
旧ニサは5角形の城壁で囲まれた中にあり、円形のゾロアスター寺院やワイン醸造所(甕やパィプの一部が残っている)、「王の間」などの跡が、今でも見て取れる。王の間には、4本の柱と一段高くなった玉座跡が残っている。
新ニサの方には、かろうじて人為の跡と認識できる盛土が続いている。こちらはパルティア帝国が滅んだ後も、モンゴルの到来まで町は存続されていたという。 ニサで発掘された出土品のなかで、主なものはずっと歴史博物館で展示されていたので、近々完成する新しい歴史博物館で目にすることができる。
象牙のリュトン(杯)・リュトンとは、動物の角で造られた儀刃目の杯のこと。古代ギリシャからインドまで、当時は広く普及していた。ニサのリュトンは紀元前2世紀ぐらいのもので、基部にはケンタウロスやグリフオンなどの 上半身が彫られている。装飾のモチーフには主にギリシャ神話が用いられているが、人物がパルティア風衣装を身に着けているのが特徴だ。
エロース像 ・銀製の天使の像で、やはり紀元前2世紀ぐらいのもの。
アフロディーテ像・大理石で造られた女性像。紀元前2世紀くらいのもので、一説によればパルティア王ミトウリダット 1世の娘ロドゴウネがモデルになったらしい。彼女は軍を率いて戦場に向かうこともある、勇敢な女性だったという。
この他にも、アテネ像やサイレーン像、馬の飼育の記録を記した陶片や武具などが出土されている。

アナウ
アナウは、アシュガバットの南東約12km のところにある都市の遺跡。15世紀あたりに「バガバッド」の名で記録に現われた城塞都市で、竜の装飾が施された、美しいセイットジュマール・アッディン・モスクで知られていた。鮮やかな青のタイルで覆われたモスクは、1948年の地震で倒壊してしまったが、今も地元の人々の信仰を集めている。アナウには、新右器時代から人類が定住していた形跡がある。1904年に発掘調査が行なわれ、彩文上器が出土して話題になった。

フィリューザ
アシュガバットから南西に約30km 、コペット・ダグ山脈に深く分け人った、イランとの国境近くにある高原の避暑地。山々に四方を囲まれた谷問に遊園地やカフエ、保養所が続き、並木道をそぞろ歩く家族連れやグループの若者でいつもにぎわっている。
赤い地肌をむき出しにした山々豊かな緑が、好対照の景色を作り出している。遠くから眺める荒涼としたコペット・ダグ山脈はさわやかな場所だ。

コヴ・アタ
コヴ・アタ地底湖(コヴ・アタは「湖のお父さん」の意味)は、地ト約60mのところにある温泉湖。湯は 29種のミネラルを含み、 ―年を通して約38度と定で、皮膚病や若返りに効果があるという。洞窟の奥行きは220m 、温泉の奥行きは70m近くあり、水深は約16mある。薄暗い洞窟の底でコバルトブルーに光る温泉は、とても神秘的だ。



マーリ
マーリは、アシガバードの東約300kmのところにあるトゥルクメニスタン第二の工業都市。マーリの歴史は1884年、メルヴを征服した帝政ロシア軍が近郊に町を築いたことに始まる。町は当初、そのままメルヴと呼ばれていたが、1937年にマーリと改変された。マーリの町にはこれといった見どころはないが、ここから30km がほど東にメルヴの歴史的遺跡がある。乗り継ぎのためにも、マーリを訪れる機会がある。
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メルウ
メルヴは、かつてシルクロードきっての規模を誇ったオアシス都市。ペルシャと中央アジアを結ぶ重要な中継点として成長し、数々の王朝や帝国の興亡の舞台となった。
特に首都となった七ルジュク朝時代の繁栄はめざましく、「高貴なるメルヴ」と呼ばれるイスラーム世界屈指の都に発展した。あの「千夜一夜物語」にも、この頃のメルヴに題材を得たエピソードが少なくないといわれている。しかし1221年のモンゴルの来襲で町はことごとく破壊され、メルヴは瞬にして歴史の舞台から消え去ってしまった。現在のメルヴは、風化した日乾しレンガの城壁と、溶けかかった砂糖菓子のような遺跡が原野に点在する、無人の 土地となっている。あそこに立って、かつての百万人規模の文化都市の姿を想像するのは難しいかも知れない。しかしそれだけに、入々の営みを飲み込んだ歴史の苛酷さと、砂漠という環境の厳しさは、容易に実感できる。
メルヴは、「さまよえる町」といわれるように古い町が捨てられるとその上にではなく、隣接して新しい町が造られた。そのため、5つの異なった時代に築かれた町の跡を同時に見ることができる。
ドーナツ型の城壁が残るエルク・カラの部分が最も古い時期のもので、アケメネス朝(紀元前6〜4 世紀)時代の城跡とされている。当時メルヴは、「マルギ アナ」という名で知られていた。この城壁に 上がると、メルヴの全体像をほぼ見渡すことができる。
その南方に位置するギャウル・カラは、アレクサンドロス帝国が分裂して生まれたセレウコス朝(紀元前 4~ 3世紀)時代のもので、パルティア帝国を経て、ササン朝(3~7世紀)時代まで使われた。ササン朝の時代には、ゾロアスター教をはじめキリスト教や仏教など様々な宗教が栄え、ギャウル・カラ内の舎利塔跡からも仏像が多数出土している(メルヴは仏教遺跡の西漸の地としても知られる)。メルヴの中心となるスルタン・カラは、トルコ系民族の王朝七ルジュク(11~12世紀)時代に造られたもの。メルヴはセルジュク朝の首都となり、経済的発展と共にイスラーム学芸の中心地ともなった。「ルバィヤート」で有名なペルシャの詩人・数学者のオマル・ハィヤームも、この時期のメルヴの天文台主任として活躍している。また数万冊の規模の図書館が8つあったことも知られている。しかし次のホレズムシャー朝(10~13世紀)時代に、メルヴの命運は尽きることになる。1218年に姿を現わしたチンギス・ハーンの特使は、税の献納と町の美しい娘たちを差し出すよう要求したが、メルヴは彼を殺してこれに応えた。
1221年、その報復のため、チンギス・ハーンの末子トゥルイに率いられたモンゴル軍がメルヴに押し寄せた。7日間の包囲の後モンゴル軍は、人命維持を条件に降伏したメルヴの城内になだれ込んだ。モンゴル兵たちは、1人あたり300から400住民の殺教を命じられていたという。この結果、100万近い住民のことごとくが殺され、文字通りメルヴは灰嬬に帰してしまった。その後、ティムール帝国時代に小規模なアブドゥール・ハーン・カラ、18世紀前半にそれを延長するかたちでバィラム・アリ・ハーン・カラが造られたが、過去の栄光を再び取り戻すことはなかった。
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メルウの主な見どころ
スルタン・サンジャール廟
セルジュク朝の最盛期を築いた王、スルタン・サンジャール(1118〜1157)が眼る廟。高さは38mもあり、かつて青タイルで覆われ輝いていたドームは、メルヴから1日歩いたところからも見ることができるという。外壁は5mの厚さがあり、基礎は6mの深さに達している。1140年代に建てられてから、モンゴル軍の破壊や、地震に1000年近く耐え抜いてきた建築技術の高さがうかがい知れる。

キズ・カラ
奇妙な形の大小2つの城跡。これらはササン朝の時代に建てられたが、セルジュク朝の時代まで使われていた。パィプが並んだような外壁の造りは、矢や弾丸をそらせるための仕組み。内側には、中庭があった内部の構造を示す遺構がわずかに残っている。ところでキズ・カラとは、「乙女の城」といった意味。セルジュクのスルタンは、奴隷の娘たちを侍らせたパーティを、ここで頻繁に催していたという。

ムハンマド・イブン・ゼイード廟
1112年に建てられた、典型的なメルヴ様式の廟。イブン・ゼィードはこの廟の建設の400年前に死んでいるので、実際のところだれの廟なのかは議論があるところだ。
近くには、巡礼者のための宿泊所や窯、城跡などが残っている。色とりどりの布切れが結ばれた木にも気がつくが、これは「子授」を願って巡礼者が結びつけていくもの。

仏塔遺跡
ギャウル・カラの南東の角にある仏塔と僧院跡。1950年からの発掘調査の結果、ササン朝時代の生活を描いた6世紀の壷 (「メルヴの壷」と呼ばれる)やガンダーラの影響を受けた2世紀の仏像の頭部、小さな仏像など仏教遺物が数多く出土している。


キューニャウルゲンチ
トルクメニスタンの北西にあり、古代ホレズム帝国の首都です。イスラムの遺跡やミナレットがきれいに残っています。キューニャアルゲンチのアクセスはウズベキスタンのカラカルパクのヌクスとウルゲンチから一番早いです。アシュガバードから行く場合はダッシュオグズまでの飛行機にお乗り下さい。ダッシュオグズから車で1時間半ぐらいでいけます。

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トルクメニスタンの国旗

メルヴの遺跡

メルヴの城壁の上部

キューニャウルゲンチのイスラムの遺跡

スルタン・サンジャールの廟

マーリの周辺

ダッシュオグズの少年

ダシュオグスの民族衣装を着た学生

キャーニャ・ウルゲンチの周辺

トルクメン人美女

伝統的なお家の窓

ゴクテベの大モスク

キャーニャウルゲンチの遺跡